上村松園 「待月」
吉田康則 さんを偲んで(2019/11/7)
彼との出会いは四年前の当事者会だった、会には珍しく壮年の知的な雰囲気を醸し出していた。
当事者会でのミーティングでは年齢が近いせいか彼の苦労(職場でのパワハラ)は痛いほど心に響いた。また彼の生来の性格か他者へのいたわりとやさしさは参加者全員の共感を生み、一躍人気が出た。創薬従事者の経験が多様な症状に苦しむ当事者の羅針盤にもなったと思う。
私の毒舌(精神薬の副作用)にも丁寧に科学者らしい視点で正直に薬の効用の限界を語られたのにはビックリした。(利害関係者じゃなかったせいか?)
「飲むクスリ」以外に「読むクスリ」「話すクスリ」があるかもしれないという仮説を導き出させてくれた。
また、彼の当事者会での学びは「過去は変えられないが未来は変えられる」「鬱の入口と出口は違う」だったとよく仰っていました。
それは今後の吉田さんの生き方探しを懸命にしていたと思う。
苦労の種類が近いように感じられ「分かった、もう言うな、その苦しみは同じだから」と彼の悩みを聞きながら心に念じたことが何度もあったし、涙を堪えることに必死だった。
その後、彼は「職場環境におけるパワハラ問題」を究めるべく大学で学び直し、臨床心理士を目指し大学院へと進まれた。
私は「障害者福祉は実学的社会学」の信念のもと、障害者福祉の歴史を現地現場から学び出した。
吉田さんには就いていけなかったというのが正直なところだ、精神症状のカンファレンスは身につまされやり切れなかった。
息苦しく、文字を追うのが辛くフラフラになり調子を崩す一因になった
「自分たちのような苦労は自分たちで最後にしたい」(よく語ったテーマ)という思いは同じだったが取り組み方が違っていた。
もちろんこのテーマは難解で大きいが「誰かが始めないと後に続かない」との思いがあったと思う。
そんな彼が1年5か月前、腸内フローラについての私のLINEに珍しく反応してきた、最初は創薬従事者の性かと思っていましたが、どうもそうじゃないとお聞きし入退院を繰返す彼の奇跡の回復を祈った。
最後にお会いしたのは三河湾の陽光まぶしい2019年4月の半田の喫茶店だった。
私も事情を抱えていたため2時間ほど彼の病気と今後の障害者福祉の取り組み方の話に終止した。
今振り返ると、家庭のこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、自己肯定感が高まることをなぜ話せなかったのか後悔が次から次にやってきます。
彼とは障害に前向きに取組み無理をする戦友のつもりだったのは私の思い上がりか?
生身の彼に会うことはもう出来ない、ご家族から亡くなったとの訃報に接し、眼前の色彩はモノトーンに変わり驟雨の中,虚ろう景色の中で独りたたずむようだ。
中陰(亡くなってから49日まではこの世に漂っているという)の彼はシャイでニコニコ笑いながら私の問いにさりげなく周りに配慮して語りかけているように思える。
合掌(どんよりした雲を窓越しに眺めながら)
その後について(2020/2/10)
ご遺族から承諾をえて、ご本人を実名にてお伝えします。
昨年、訃報に接して、悲嘆(グリーフケア)の観点から私の判断で匿名にさせていただきましたが、病に正面から堂々と立ち向かった吉田康則さんの生き様と足跡を多くの方に知っていただきたく決めました。
もし、異論がございましたら遠慮なくお知らせください。
それは、ナゼ私は病識なき病になったのか?
ナゼ生きることに苦しまなければならなかったのか?
そして、ナゼまだ私は生きているのか?
当事者研究を通じて見つめてみたいと思います。
たとえ未完の研究に終わったとしても悔いはない。
名古屋当事者研究会
主宰者